戦国時代最後にして最強の砦「真田丸」
目次
12月に入りNHK大河ドラマ「どうする家康」も大坂の陣が起こるところまで進み、いよいよクライマックスへと突入していきます。
11月26日に放送された第45回「二人のプリンス」では溝端淳平さん演じる今川氏真が宗誾として再登場し嬉しく思いました。
12月3日に放送される予定の第46回「大阪の陣」では日向亘さん演じる真田信繁(幸村)が大阪城防御のために築いた「真田丸」が登場すると思われます。
戦国時代最後にして最強の砦と言われた「真田丸」。
ここでは「真田丸」の築城から取り壊しまでと真田幸村(信繫)について書かせていただきます。
真田丸とは
真田丸とは慶弔19年(1614年)の大坂冬の陣において、豊臣軍の大坂籠城作戦のために築かれた戦国時代最後にして最強の出城のことです。
世間一般でも有名な戦国武将の真田幸村(信繫)が誘い込みからの攻撃という戦法に優れており、この出城から徳川軍を迎撃し徳川軍に大打撃を与えました。
実際には白ではなく、土塁や柵などで区画されたようなものであることから曲輪(くるわ)として表現する文献もあります。
2016年に同じNHK大河ドラマとして真田幸村の半生が描かれた「真田丸」が放送されています。
真田幸村とは(一般的な英雄像)
真田幸村とは安土桃山時代から江戸時代までに活躍して武将です。
世間一般には真田幸村という名で有名ですが、実際の名前は真田信繫であり幸村という名前は没後に出版された小説「難波戦記」などの影響から広まったとされています。
忍者集団の真田十勇士を率い、豊臣家に生涯忠誠を誓った人物として英雄視されています。
大坂冬の陣では真田丸の築城、大坂夏の陣では敵陣を突破し家康の目前まで到達するなど大活躍を見せ、天下にその名を轟かせています。
真田幸村とは(実際はどんな人だった?)
大坂の陣での活躍から英雄視されている真田幸村ですが、他の名だたる武将たちと比べると戦歴が圧倒的に劣っているという声も少なくありません。
1590年小田原征伐の初陣から朝鮮遠征、関ヶ原の戦い、大坂の陣と活躍したとされていますが、彼の動きの詳細について記載されたものはほとんど見つからず活躍したのは関ヶ原の戦いでの足止めと大坂の陣だけではないかとされています。
私自身は関ヶ原の戦いの足止めと大坂の陣での真田丸の築城、敵陣突破でも十分な功績であると思います。
大坂の陣と真田丸
関ヶ原の戦いから14年経ち、豊臣家滅亡へとつながった大坂の陣。
上杉謙信、武田信玄、織田信長など名だたる武将が活躍した戦乱の世の終わりを告げる大戦。
その発端となった徳川家康が激怒した事件、真田丸を築城することになった理由などをここでは書いていきたいと思います。
「国家安康」と「君臣豊楽」
1614年豊臣秀頼によって豊臣家ゆかりの寺院である方広寺大仏殿が再建されました。
その方広寺の鐘に書かれた銘文が大坂の陣へとつながる方広寺鐘名事件を起こす要因になってしましました。
その銘文に書かれていたのが「国家安康」「君臣豊楽」という文字です。
「臣豊」という豊臣家を表す文字が続いているのに対し、「家康」を表す家と康の間には安という文字が入り分断されていることに家康が激怒しこの方広寺鐘名事件が起こってしまいました。
豊臣家は弁明し家康の怒りを解くことに努めましたが、家康はこれを許す代わりに徳川家に臣従するよう3つの難題から1つを選ぶよう提案しました。
その難題が、
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1豊臣秀頼を江戸に参勤させること
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2淀殿(秀頼の母)を人質として江戸に置くこと
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3豊臣秀頼が大坂城を退去すること
この3つであり、豊臣家はこの難題を拒否しいよいよ大坂の陣が始まることになるのです。
真田丸の築城と大坂冬の陣
1614年上記の難題を豊臣家が拒否したため徳川家康は大坂城を攻め囲い、大坂冬の陣が開戦してしまいます。
徳川軍30万に対し豊臣軍10万と兵力で劣っていた豊臣軍は大坂籠城を決意し、徳川軍を迎撃することとなりました。
大坂城は南東に弱点があったとされその防御のために真田幸村によって築城されたのが真田丸です。
上記していますが真田幸村はこの出城から徳川軍20万を迎撃し奮闘、大打撃を与えたとされています。
実はこの真田丸はただ単に弱点を防御するためだけに築城されたのではなく、徳川軍をおびき出し打撃を与える攻めの城として築城されたという説もあります。
「真田丸の戦い」とも呼ばれたこの戦いによって真田幸村の名は天下に轟くことになったのです。
真田丸の取り壊しと大阪夏の陣
真田丸の奮闘により徳川軍も大きなダメージを受けてしまいましたが、徳川軍の優勢は変わらず和議を結ぶという形で大坂冬の陣は終結しました。
冬の陣終結後、和議の条件により真田丸は取り壊されることになりました。
和議によって一応の決着はついていた両軍ですが、冬の陣後も次の戦いに向けた準備を開始しています。
そうした中で1615年に大坂夏の陣が開戦。
冬の陣での和議によって裸城同然となった大坂城では籠城することもできず、豊臣軍は玉砕覚悟で家康の首を取ることだけが勝利への唯一の道でした。
真田幸村率いる真田勢が家康本陣へ接近し優位に進んでいたものの、最終的には死傷者増加により撤退。
真田幸村も討ち取られてしまいました。
現在にも残る真田丸
戦国時代最後にして最強の砦と言われた真田丸と築城した真田幸村について書いてきました。
最後に現在の真田丸について書いていきたいと思います。
もちろん真田丸は取り壊されているため存在しませんが跡地とされる場所やゆかりのある地について書かせていただきます。
真田丸が建っていたとされる場所
何百年も前のこととなると、正確な情報は存在しません。
ですがここ最近で有力な情報の出た真田丸の跡地を紹介していきます。
大阪市天王寺区の明星学園付近
現在までの調査により最も可能性が高いとされるのがこの場所です。
2016年に真田丸顕彰碑が建てられたほか絵図や盛り土などが発見されています。
その他真田丸に関する聖地
①三光神社
ここには大坂冬の陣のころ、真田幸村が大坂城まで掘らせたと言われる「真田の抜穴跡」が残されています。
神社の境内には真田幸村公の銅像が建っています。
②心眼寺
このお寺は真田幸村、幸昌父子の冥福を願って建立したとされています。
門扉には真田家の家紋が飾られており、2014年には真田幸村のお墓が建立されました。
③円珠庵
境内に鎌八幡と呼ばれる霊木があり、大坂冬の陣の時に真田幸村が榎の木に鎌を打ち付け必勝祈願をしていたとされています。
④安居神社
真田幸村は大坂夏の陣で負傷したあと、この場所で休んでいるところを急襲され戦死したとされています。
境内には真田幸村像と戦死跡の碑が建立されています。
まとめ
戦国時代最後にして最強の砦と言われた「真田丸」と真田丸を築城し大阪の陣での活躍から英雄として伝わる「真田幸村」。
本記事ではそれらにまつわることを書かせていただきました。
現在放送中のNHK大河ドラマ「どうする家康」において12月3日と10日にその姿を現すことになると思います。
もしこの記事を読んで興味を持った方は是非ご覧になってください。
また、過去に同じNHK大河ドラマで放送された「真田丸」は真田幸村の半生と真田丸の築城が描かれており、こちらも何かしらの手段でご覧になっていただければと思います。