徳川四天王・本多忠勝 徳川軍最強と謳われた男の最期
目次
松本潤が主演を務める大河ドラマ「どうする家康」も関ケ原の戦いを終えいよいよクライマックスが近づいていますね。
11月19日に第44回 徳川幕府誕生が放送されます。
今回はその「どうする家康」で圧倒的存在感を放つ本多忠勝(演:山田裕貴)の最期を紹介したいと思います。
歴史上の話であるため諸説ありますのであらかじめご了承ください。
「どうする家康」第44回 徳川幕府誕生 隠居を申し出る忠勝
11月12日放送の「どうする家康」第43回で天下分け目の関ケ原の戦いに勝利した徳川軍。
11月19日放送予定の第44回 徳川幕府誕生で本多忠勝は隠居を申し出ることになっていると思われます。
数々の戦で活躍し徳川軍最強と謳われる本多忠勝はなぜ隠居を申し出たのか。
最初の申し出時は家康に慰留されていますがその5年後には家督を息子・忠政に譲り隠居したとされています。
本多忠勝が亡くなったのはいつ?
本多忠勝が亡くなったのは1610年で63歳で亡くなったとされています。
関ヶ原の戦いに勝利して10年後のことですね。
隠居を申し出たのは1604年とされておりこの時は家康に慰留されていますが、1609年には息子・忠政に家督を譲り実際に隠居したとされています。
亡くなったのが隠居して1年ほどなので何か大きな理由があったのでしょう。
本多忠勝の死因は?
本多忠勝の死因については諸説ありますが確かなものは存在しません。
眼病を患っていたとされるものもありそれが現在で言う糖尿病からきたもので、死因は糖尿病ではないかという説も存在します。
また、後述しますが小刀でケガをしたという逸話が存在するため、その傷口から何らかの感染症を患ったのではないかという説も存在します。
死因として確かなものはありませんが、老衰や暗殺ではなく病死の可能性が高いのではないでしょうか。
後述する逸話から自死ということも考えられます。
いずれにしても隠居を申し出た理由の1つが眼病であるということは間違いないでしょう。
本多忠勝にまつわる逸話
徳川四天王の1人で戦国最強とも言われた武将・本多忠勝。
なぜ戦国最強と言われたのか。
それには数々の逸話があるからだと思われます。
ここでは本多忠勝の逸話を紹介していきます。
各武将からの称賛
本多忠勝が戦国最強であると言われる理由に織田信長、豊臣秀吉ら戦国時代の大物武将から称賛されたことがあげられます。
①「花も実も兼ね備えた剛の者」織田信長
②「徳川を滅ぼしたら忠勝を生け捕って、我が家中とする」「東国に隠れなき勇者」豊臣秀吉
③「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」小杉左近
上記3つだけではありますが徳川家康がうらやましがられるほどの能力を持った本多忠勝を表すものだと思います。
6.5mもある槍を使いこなす
戦国時代の一般的な槍の長さは4.5m。
本多忠勝は一般的な物から1.5~2m長い槍を使いこなしていたと言われています。
また、その槍の名前が「蜻蛉切」といい、槍の先に止まったトンボが真っ二つに切れたことから名付けられたものであるという逸話も存在します。
57回の出陣でかすり傷ひとつ負わなかった
本多忠勝は生涯で57回出陣し、その全てでかすり傷ひとつ負わなかったという逸話が存在します。
歴史上で有名な桶狭間の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いでも一切のかすり傷を負っていません。
もしこの逸話が事実であるならば戦国最強と言われることも納得がいきますね。
亡くなる数日前に小刀で怪我
57回の出陣でかすり傷ひとつ負わなかったという逸話のある本多忠勝ですが、晩年にケガをしたという逸話が残されています。
彫り物が趣味だった本多忠勝は小刀で自分の名前を刻もうとした際、手を滑らせ自分の手を切ってしまいました。
これが生まれて初めてのケガであるとされています。
真偽のほどは定かではありませんがやや面白味のある逸話になっています。
しかしこのケガを負った際「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と呟きその数日後に亡くなったという逸話も残っており、自死の可能性もあるとされています。
まとめ
戦国最強と謳われた本多忠勝の最期と逸話について紹介させていただきました。
「どうする家康」では山田裕貴さんの演技力もあり逸話が本当であるかのような圧倒的存在感を放っていますね。
11月も中旬を迎え「どうする家康」もあと数回の放送で終了となってしまいます。
山田裕貴さんの演技にも最後まで注目していきたいと思います。
諸説あるため正確な情報ではないかもしれませんがご了承ください